哲学

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哲学って、いったい何ですか?
意味もよくわからないし、何をすることなのかも全くよくわかりません。

そんなこんなで、具体的に何をする学問なのかわからないので、大学の一般教養で「哲学」を一年受講しました。
授業は、日本の最高大学から先生が出向してきて、毎週缶ビールを飲みながら、酔っ払いながらショーペンハウアーはどうのこうのと、好きなことを時間しゃべって帰っていくだけでした。
俺は好きなことを話すだけだから、授業は出たい奴だけ出ればいい、単位はやる、というような授業でしたので、大教室でしたが、受講する学生は段々と減って行きました。

こういう授業はもう今の大学では無いんでしょうね。
僕らの時代はまだ古き良き大学の伝統が残っていた時代でした。
帝国大学で教鞭をとっていた化石のような先生の講義が聞けました。
授業の開始時間から30分以上たっても先生が来ないとき、自動的に休講となりましたよね。
サークルの合宿で遠征する時、駅まで引退、卒業したOBまで手土産持参で見送り、万歳三唱もありました。
学生が、今よりも大学に対して自立をしていたような気がします。
今は学生の親が、大学に「〇〇先生は休講で、子供が授業を受けられない」なんて苦情をするらしいから、興醒めです。
大学は大学で、学生課の職員に学生として意見や要求をしても、「学生の分際で何を言う」なんて空気があるようです。
学生の立場もすっかり変わってしまいましたね。
学生は大学に対して独立した存在だったはずですが、もはや学生は「生徒」とイコールな存在になってはいませんか。

さて、話がすっかりそれましたが、哲学の授業です。
偉い先生の話の意味は全く理解不能でしたが、教壇でビールを飲みながらおっさんが一方的にしゃべっている、という不思議な構図が好きで、結構出ていました。

でも、やっぱり、哲学って何だったのか未だにわかりません。
印象としては、過去の世界の、それも紀元前まで遡るような偉人たちがああ言っていた、こう言っているとか、そんなことを比較検討する学問という気がしてます。

なんかやってることも抽象的で、よくわからない。
突き詰めていっても、それってひとつの学問になるんだろうか?
なんだかよくわからないことをしているのが哲学だから、まあいいや。
自分はそんなことをする意味をあまり感じないから、やらない。

若かりし日に思っていた哲学に対する素朴な疑問と偏見です。

そのままにしておくのはちょっと悔しいのと、哲学を学んでいる人に誤解があっても失礼なので、哲学という言葉の意味を今日また調べてみました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6
「哲学(てつがく、希:φιλοσοφια=愛知)は、前提や問題点の明確化、概念の厳密化、命題間の関係の整理などの理性的な思考を通じて、様々な主題について論じる、学問の一種。また、そのような思考を通じて形成される立場も哲学と呼ばれる(ソクラテスの哲学、など)。」 ウィキペディア(Wikipedia)参照。

やっぱりよくわかりません。

もう少し広い意味の哲学とは、
「哲学は、思索を経て何かの意見や理解に辿り着く営みであり、そのような営みの結果形成されたり、選ばれたりした思想、立場、信条を指す。例えば、「子育ての哲学」、「会社経営の哲学」、などと言う場合、このような意味での哲学を指していることが多い。」 ウィキペディア(Wikipedia)参照。

これなら、何となくわかるような気がするけど・・・。
普段何気に「ああだ、こうだ」と、物事の原因や理由を考えていることって、自分の中での哲学なのかも知れません。
そう考えると、自分も日々哲学をしている、と言えます。
哲学は、物事を考えるための思考力を身につけるためにする学問ではないと思いますが、結果として日々頭の中で思索をめぐらすことは、思考力を鍛えることにはつながっているはずです。
子供の頃、空想癖のあった人って、大人になっても面白い人多いですもんね。

せっかくだから少し哲学してみます。こっから先は僕個人の思考です。
メタボ対策で夕食をあえて少なくしていたのに、お腹が減って結局ファミレスで21時頃フルメニュー食べてしまいました。
最初から普通に食べてれば良かった、と思う反面、食欲が満たされたことに対しては満足感で充たされてしまうんですよね。
こんな感じで食欲は勿論、物欲だったり、性欲だったり、あるいは名誉欲だったり、嫉妬心や僻み、妬み、後悔だったり、一種の欲求に関わるような部分は、自分の中の嫌な部分だったりするもんです。
こういう「欲」がもし無ければ、どんなにか素晴しい人間になれるのに、なんてよく思ってしまいがちです。
例えば、食欲があるから、好きなものばかり食べ過ぎて、体のためにバランスの良い食事がとれなかったり、性欲があるから学校や職場でタイプの異性がいたりした時、勉強や仕事以外の余計な考えがめぐってしまって正しい評価や扱い、やるべきことができなくなってしまったり、と。

宗教に目覚める人って、こういう心の弱さに繋がるような部分を克服したくて、修行の道に入るんでしょうね。
僕は俗世にまみれてますから、克服はできるにこしたことはないとは思いますが、逆に人間は「欲」の部分がなくなってしまっては、生きる気力もなくなってしまうんじゃないかな、とも思っています。目的を見失ってしまうのではないか、と。

克服を目指すという人は、それが目的なんだというかも知れませんが、克服することと人間として生活を続けていくことは、同じゴールではない訳で、仮に克服するような超人がいたとしても、その後も人間生活は続く訳です。

欲求を0にすることはできないでしょうから、程度や質の部分のコントロールは重要になってくるとは思います。

また生きる気力ってのも勿論、「欲」だけではないと思います。
誰かのために頑張ろうとかね。
自分のためには頑張りが効かなくても、大事な家族や友人のためには頑張れる、なんて。
それも「欲」と、そんなに遠くないものなのかも知れないですけど。

そんなことをあれこれ、どうこうと考えていて、これは自分の思考なんであって、哲学ではないのではないか、思考する自体が哲学なのか?・・・。

こういうふうに整理して提示をしてみると、第三者が自分の思考に触れる瞬間に、その思考は哲学になっているんじゃないか。
第三者が触れなくても、自分の思考で道筋立てて考えているという時点で、哲学なんだよという解釈もあろうかと思いますが、提示しなければただの思考であって、哲学とは呼びたくないなあ。

やっぱり哲学に対して少しまだ偏見があるんでしょうか。

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